見極めねば先へは進めない

自動車運転免許を取得するために自動車教習所へ通った方には容易に理解できるでしょう。
各ステップ2〜8教習でしたか(記憶の彼方で不鮮明...)ごとに、次の段階へ上がるための「見極め」の試験がありました。
それぞれの知識と技能が規定レベルに達していなければ、再度の学びのために補習が必要とされたこと、記憶にあるはずです。
同じように、
わたしたちの存在理由と目的は、この体でもなく、また心でも意識でもなく、魂というエネルギー体そのものの「成長と学び」であると理解ができた人が増えてきた感覚があります。
ところが、そこまで「頭で理解しただけ」では次の段階へは進めない、とされます。
この頭で理解しただけ、というのが大変くせ者で、その前に「自分の存在は心である」と誤って認識していることがその原因にあろうかと。
体は借り物。ここまでは到達できた方が多いように見えます。
(このレベルにさえ到達していない方々はもう同じ道を歩むことはありません・あるいは先般の記事のようにこの地の人間とされている存在の大半はAndroid/bot なのでお呼びではない)
しかし、では何なの?というところ。
心で感じ、直感を大切に。と、語るひとたち。
自分もその道を通ってきました。と言いますか、今世今生、すべて直感にしたがって生きてきた証人がここに居ります。
けれども、
自分の存在は、心でもなければ直感というエネルギーを感じる存在でもない。という地点に至るまでは、再び試行錯誤を重ねることになりましょうか。
「心」はセンサー・道具にすぎない。
体という物質体とセットで貸与されている、目に見えない側のもう一つのツール。
すでては両輪で、すべては対(つい)である。それがこの地のお約束。
この仕組みを見極めなければ、卒業検定はおろか修了検定の資格さえ与えられないのだと。
よって、各段階の検定をクリアするには、
まず「体は借り物だ・自分の存在とはこの心なんだ」という誤った認識を撤回することが、まずスタートでしょう。
そして、
「戦争反対」だとか「負の力を選ばないことが大切ですよ」「幸せになるためにお金を引き寄せましょう」といった、片側だけに「フタをして見て見ぬふり」をしたり、隷属化の道具を崇拝するのも、第一段階(あるいはそれ以前)レベルだったと知ることが必要ではないかなと。
第二段階まで終えると、路上教習になったのではないでしょうか。
ところが、
ここでも「すべて教室で習ったことしか起きないと勝手に仮定しない」ことが大切です。
突然の飛び出しもあるかもしれません。危険を予測しないで進んでまいますと、横の教官に強制的に激しくブレーキを踏まれます。
これは、まさに、
「闇ではなく光を選んでわくわく過ごしましょう」などといった、その道のビジネスの落とし穴に捕まらないことも大切ではないかなという部分に酷似しています。
勝手に片側をフタをせず、すべてを認め受け入れる。当然両方ともに尊重する。その真意をしっかりと理解する。
その先に答えが待ち構えているのです。
なぜなら、
シーソーは片側だけに乗っかっても動かないから。動かないとは、すなわち「変化できない」こと。
最後に、卒業検定で突然強制ブレーキを踏まれ、あろうことか卒検やり直しなどという稀有な生徒が出来上がります。
変化などしていては、いつまでも永遠に悟りには達しない。
と、やってしまいますと、卒検「中止」。強制終了です。
この地もあの世も、すべての宇宙も。標準仕様は「変化し続ける」変わりつづけ、学び成長を続ける。
これがデフォルトなのですから。
はい、実際に卒検中止をやったわたしです。
それまでの各段階を、すべて補習なくストレートに上がってきたので「教習所として儲からない生徒」は、最後で落としてやれ。となった可能性を感じた、40年ほど前の出来事でした。
見極める。
それは、頭の中だけで知ったつもりになることではない。やはりこの地では痛い目にも遭わなければ学べない。だが、痛い目に遭ったのなら、しっかりとそれを糧として成長しなければ。と再認識すべき段階を迎えているように思われます。
2024/04/08(Mon) 10:51:18 | New Age