多くの場合「違和感」こそが正しい

そのまんまです。
違和感を感じるなら、その違和感が「何かを伝えて」くれたのだと認識する。
(違和感のその対象が正しいと言う意味ではありません・念のため)
忙しいと、その違和感さえもスルーしてしまいます。
心のセンサーが働かないからです。
だから「心が亡くなっている」と書いて、忙しいと読むのだと。
意図的に忙しくしなければ生きてゆけない社会構造を作り出し、心に感じるもの・コト、そのものを台無しにされてきました。
誰がそう仕向けたのか。そんな論議自体が、もはやどうでもよいフェーズに入っています。
くだらない思考に、取るに足りない論議こそが、上述の「心を亡くす」原因だから。
そして、その体験をするために、わたしたち自身が創り出した世の中だったのですから。
違和感は、多くの場合、自らの道を歩む上で必要な周波数とは異なる状態に「変化」していることを指し示しています。
道を外れていますよ。そちらの道ではありませんよ。と。
もちろん、
正しいとされる道であっても、激しく大きなノイズにより「ブレて」しまった場合にも、違和感として盛大に降りかかってきます。
その時点で、心のセンサーの許容値を超えているからでしょう。
違和感さえも「感じられないほどに」忙しくする。
いまだに「それが美徳」だと思ってしまうこと自体、深層心理レベルでこびりついている頑固なアカだと知ることです。
ランチを口に放り込む。片手にスマホ...。
車の運転をしながらパンを口に放り込む。片耳にイヤフォン...。
手帳やオンラインスケジュールは「真っ黒・分単位」で項目が並ぶ...。
テレビを見ながら食事を口に掻き込む...。
そんな姿。
カッコいいとでも思っているのでしょう。
はい、わたしも同じことをやりました。カッコいいとは思いませんでしたが。
やむに止まれず。です。
携帯の電源が無くなって切れない限り手から離せない。まるで瞬間接着剤で手のひらに貼り付けられているように。
そして食事はできず、果ては寝る時間も無くなって、あとは冷たい板の上に伏すだけです。
よく生きて戻れたものです。
先般39年ぶりに再会した友人は、精神科を体験してしまったようですが、でも彼もまたよく生還したものです。
ここまで自分がトレースしてしまったから書き記します。それを勲章にする低レベルな発想ではありません。
もう奴隷生活はやめることです。
ましてそれがカッコいいなどと思うなら、もう救いようがないと断言できるレベルでしょう。
棲み分けする必要がある現時点で、今後は同じ地で生きる存在ではありませんから。
食べ物として命を捧げてくれた存在に、なぜ感謝を捧げないのですか。
借り物として貸し出されている「体」を、どうして痛めつけ悦に入るのですか。
ええ、違和感を感じないからでしょう。
それは感じられないほどに「心が亡くなって」いるから。
まず、その感覚を取り戻してください。
そして、その誤った道を乗り換えてください。この地においてはもう間に合わないでしょうが、次の生ではすこしでもマシな生き方ができるかもしれませんし、激しいマイナスポイントは幾らかでも減るかもしれません。
違和感とは、進むべき道ではありません。と教えてくれていることを。
物質社会・貨幣経済という「カリ・ユガ」の時代はもう終わったのです。
違和感こそ、正しい。
(違和感のその対象が正しいと言う意味ではありません・再度重ねて)
もちろん、ものごとには何でも100パーセントはありませんが、しかしほぼ間違いなく。
見上げた空からVサインを受け取ります。
今日も素晴らしいエネルギーにシンクロいただける皆さま、ありがとうございます。
2024/02/02(Fri) 11:48:51 | New Age