まず心に響く感覚が創造のスタート

初めに響きます。
まず心に共鳴する「何か」を感覚として感じる力がありき。
グッと押してくる場合があるでしょう。
ジワジワと上がってくる感覚かもしれません。
どことなく、でも何か判らない。そんな感触のようなものでしょうか。
これが「同じ周波数が合致する瞬間」の感覚。
わたしの場合には。
多くの場合、間違いなく判ります。必ず・100パーセントと断言できる感覚。
判らないのは、シンクロしていない=波長が異なる。という証明でしょう。
感じないのなら、同じ周波数ではないということ。
このような「目に見えないけれども必ず感じる力」があって、その力が伝わってきたあとに五感に落とし込まれて行きます。
それが音であったり、香りであったり、あるいは触覚なのだと理解できます。
でも、
ここまで感覚を取り戻したのなら、その順序さえ「逆であった」ことに氣がつきます。
初めにあるのは、
「自分が感じた」と思い込んでいる景色や風景や風の感覚ではなく、「自分が心の中で」生み出した力・エネルギーこそが初めにありきだったのだと。
心地よいと感じる風やその場の気温、香りや音があったから、心地よく感じた。という展開。
これが旧来の思考回路。
実は、こうして外部刺激・外部感覚によって「心が動く」ように錯覚させられてきたのでした。
まさしく、外部要因に左右され「自らの心を失う」ように仕組まれてきた世の中であったこと。
だからこそ、
負の感情に落ち込むように、陥るように、そしてそこから決して抜け出せないように、ネガな情報ばかりに触れさせるように入念に作り込まれた「映画館・ゲームセンター」だったことに氣がつきます。
心のセンサーがダメになるように、人と比較し落ち込むように仕組まれたSNSという名の洗脳しかり。
心の感覚が働かなくなるように、食べ物から蝕むよう周到に作り込まれた世の中。
自ら病むよう・負のスパイラルに巻き込まれるように、故意に作られた、病気と医薬と医療の闇。
いやはや、ここまでやるか。
との、その言葉でさえ語り尽くせない、深い・深すぎる牢獄が存在し、しかもそれを「味わいたい」と手を挙げてやってきたわたしたちでした。
「はい。終了ですよ。」
と聞こえましたでしょう。
それなら、ゲームは終わりです。
子供の頃に、公園で暗くなるまで走り回っていたわたしたち。
「ご飯できたよ〜!」と叫ぶ声が、聞こえたのと同じだと。
そう、ご近所からも炊き立てのご飯の香りが漂ってきた、あの感覚を思い出してみます。
「無から有は出現しない」
と語られているのですから、
自分の心という有限なエネルギーによって、その土台の上に初めに「無」となる感覚を創ればよいのだと理解が及びます。
まず、無を心に作ったあと、
炊き立てのご飯の香りを生み出します。
まず、無を心に実現したあと、
美しい自然と、心穏やかなな風景を生み出します。
牢屋の扉が開いているにもかかわらず、慣れ親しんだ環境だから。という理由でコンフォートゾーンに居続ける愚だけは選択したくないものです。
心に描くもの・心に抱くものが、自分自身の現実となってゆく。
このすばらしい仕組みに感謝を忘れず。

わたしが感じた心、
「その一枚の中に込めた心」を受け止めていただける方々と、肩を張らず、ともに心から響き合える感動を共有してゆきたいと思っています。
それが、望ましい未来を創り上げる方法だと思うからです。
数を追い、人と比べる必要性。
それらを捨てたときに、初めて見えてくる風景を。
わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/11/08(Wed) 11:11:02 | New Age