もういいかい?もういいよ!

かくれんぼ。
誰しも経験がありますでしょう。
もういいかい?
まあだだよ。
もういいかい?
もういいよ。
地域性もあるでしょうか、こういう掛け声ではない所もあるかもしれません。
目隠しをしている人(オニ)にとっては、「もういいよ」と、その声が発せられる場所が、ある程度判明している(=声の聞こえる場所)ので、その場所へ狙いに行きます。
公園などの隠れる場所があまりない所では、木の影などに限定されるため、すぐに見つかってしまいます。
でも、そのプロセス自体を楽しむことができました。
一連の流れそのものを味わうことができたのでした。
ここで思い出す感覚。
それは、
「完璧に隠れなくてよい」ということ。
いえ、むしろ「隠れてはダメなんだ」と、その地域の年長格の兄さん姉さんに指導を受けたのではなかったでしょうか。
時として、意図的に「頭隠して尻隠さず」な、ちょっとだけ「見えるようにしておく」その配慮、といいますか、その「遊び方」の極意です。
完全に隠れてしまうと、探す立場のオニさんが苦労します。
それに、探し回る時間が無駄に流れて、次のオニの役へと変わることが叶いません。何より沈黙の時間は必要以上にあってはならないのです。
息を潜め、そして笑いを堪えて…隠れます。
でも、足先だけをほんの少し見えるように出しておくので、すぐに見つかります。
だからこそ次々にオニの役を交代して、飽きずに繰り返し遊べたことを。
完璧に隠れて、どこに居るのかまったく解らない。
そんな子が一人でも残ってしまうと、「もうええやん、ほっとき。」(もう探す必要ないよ。放置しておけばいい。)と、その時点で仲間外れにされてしまうことさえあったように思われます。
今にして思えば「かなり微妙な心と心の接点」を「感覚的に駆け引きしながら」遊んでいたのだな、と感心します。
そう、その年代(幼稚園児から小学生くらい)には、子供たち同志で、「相手が何を考えているのか」「相手が何を感じているのか」が、お互いに理解できていたことを思い出します。
そして、
(少々言葉が適切ではないながらご容赦願って)そうした「相手の氣持ち」をあまり感じられない子も存在していたわけで、彼ら・彼女らに対しては、地域の年長者が、面倒を観ながら、先ほどの「もうええやん、ほっとき。」と発言する者に対しても、「そう言わんと、みんなで遊ぼや。」と、「お互いに楽しく時間を過ごせる工夫」をしていたこと。
この風景も、しっかりと思い出すことができます。
いつの頃からでしょうか。
人のことに触れるな。人の考えなど放っておけ。
このように、どんどん心の触れ合いが消滅してゆきました。
そして、今。
再び、こうした心の接点を復活させたいと願う感覚が戻っていませんか。
(他人の考えに左右される、という意味ではありません。)
失われた感覚。
故意に仕組まれ、意図的に忘れるよう変えられてきた社会。
極端に片側に触れた振り子は、必ず元に戻ろうとします。
戻そうとする力は、わたしたち一人ひとりの「心」から生み出すのですね。
引力に引かれて勝手に戻るやろ。ほっとけ(放置しておけ)や。
ではないはずだと。
自ら心に描く。
自分から心が触れあうシチュエーションに持ってゆく。
思い出していますでしょう。
ともに、その感覚を拡大してまいりましょう。
同じ波長で響き合える皆さまとともに。
もういいかい?
わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/07/14(Fri) 20:10:16 | New Age