「伝える言葉」みんな違って当然ですね

多くの方々が、各々の言葉で、さまざまに発言をなさいます。
その「言葉」とは、外国語か母国語かといった言語の違いではなく、同じ言語であっても「表現方法が異なる」との観点です。
素晴らしいことだと思います。
僅か30年ほど前には「民族総作家・総情報発信者」などと語られた黎明期があったことを覚えていらっしゃる方も多いはず。
Blogとは、webに置かれた日記のようなもので…だとか、説明書き・但し書きが添えられていたことを思い出します。
そして現在のように、いとも簡単に意見が公開できるようになりますと、そこにフリクション(friction)が発生します。
某社の消せるボールペンの名前ではなくて、摩擦だとか抵抗・紛争、衝突といった意味ですね。(はい分かってますよ〜との声が聞こえた氣がします^^。)
自分の意見と異なる論説には「違う!」と、反論する事例。
枚挙に遑がない(まいきょにいとまがない)はずです。
はい、わたしも長い間、それこそつい数年前・いや数ヶ月前?あるいは現在も?かもしれません。
違うんだよ!これが真実なんだから!
違うんだよ!この世はすべてウソだったんだよ!
と、叫び続けてきました。
でも、そろそろ「その感覚そのものに違和感を感じる」ことが増えてきました。
違うんだよね。
ええ、違って当然だよね。
その「違う」とは、
論説対象自体の真偽や、この世がMatrixなのかどうか、地球が丸いか平面か云々…だとかの「違う」はなく、「人それぞれなんだから表現方法は違って当然」という意味での「違う」方向へと変化してきたことです。
そして、最も大きな飛躍と感じるのが、
「その人がそう思っているのなら、その人にとってはそれが真実だと。」
Aさんは今日は晴天だ。と思えば、Aさんにとっては晴天に違いない。
Bさんは大雨が降ってる!と思えば、Bさんによっては本当に大雨なのでしょう。
これ、あり得ない!とも言えない時代に入ったように感じます。
まさに、大きな飛躍。
それが漁師的飛躍…?(字が違いますね)「量子的飛躍」これも違いますか。
【量子跳躍(りょうしちょうやく)】でした。
わたしたちは、過去に自分の意識が創造した結果を見ているだけ。
それが今の世の中・いまの目の前の風景。
いよいよ、それぞれ個々人が創造するものが、その個々人の現実になる時代に突入したような氣がします。
それが証拠に、まさにマンデラエフェクト的な、どう考えてもおかしい。あり得ない!奇跡か!
ってな現実が続くようになりました。今日も昨日も。
だからこそ、
それぞれの人が伝える言葉。それぞれ違って当然なのだと理解が追いつきました。
素晴らしい時代がやってくる予感です。
とてつもなく大きな変化、もう目の前に出現していますでしょう?
ご自身が心に描くものが現実になるのですから。
「そう思えばそのようになる」
自分の現実は、自分の心に描くところから。
そして、この素晴らしい体験をさせていただける借り物の体とこの地に、ともに感謝の心を忘れませんよう。
わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/04/23(Sun) 21:26:25 | New Age