人は「自分が知っているその人」がすべてだと思ってしまう

自分ではない、他の人のこと。
その人に対する認識は、「○○さんはこんな人・〇〇さんはこんな性格の人」という、自分自身の思い込みに過ぎない。
ええ、よく判っていますよ。
はい、そんなこと十分承知していますから。
でも、いちいち、
「この人は、もっと懐が広いはずだから。」
「この人には、もっと知らない世界があるはずだから。」
などと考えないでしょう。
日常のちょっとした会話の中でも、「その会話で交わされる言葉面だけで判断してしまう」ことが多いはず。
Aさんという人を、自分は「その人の100ある性格の中で90程度は知っているんだ。」長い付き合いだからね。
そんな誤解。
実際には、自分が知っていると思っている「その100」どころか、Aさんは「1,000も10,000も、いえ、1,000,000も10,000,000もの広がりを持っている。」に違いありません。
反対の立場でも同じことが言えるでしょう。
Bさんは、わたしという人間を「100ある性格の中で70くらいは知ってもらっているはずだ。」長い付き合いだからね。
そんな誤解。でもそれは、とんでもない誤解かもしれません。
実は「わたしの100のうちの0.1にも、あるいは0.0001に満たない部分しか」知ってもらっていない。
だから、もっとよく知りましょう。というのもひとつの学び。
けれども、
人の心を深く深く理解して…と、やっている限り、永遠に答えは出ないのです。
なぜなら、
その人と「わたし」とは別人だから。
少なくとも、わたしたちはいま、物理次元に体を持って存在していますから。
そして、この地この制限のある環境での学びを続けていますから。
人を「深く深く」知るために努力するパワーを惜しむ、ということではありません。ですが、その力を「自分に向ける」ようにしませんか。
リソースは限られているのです。
寿命という、この借り物の体を使わせていただける時間が。
努力を惜しむのではありませんし、苦労も必要です。学びのためには。
でも、
その方向とタイミング、そして「学びのどの段階において」必要とされるのか。
ここはやはりきっちりと認識したいと感じます。
人は「自分が知っているその人」がすべてだと思ってしまう。
だから、もっともっと知る努力をしましょう、というのか。
それとも、
限られたリソースは、自分を磨くためにももっと使いましょう。というのか。
ここは、やはり「物理次元・地球の歩き方」のメソッドに基づいて、制限のある中で成長と学びを重ねたいと思うのです。
理想郷や桃源郷にゆくのは、そのあとではないでしょうか。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/03/13(Mon) 21:48:18 | New Age