さまざまな道

山に登りますと、その登山道は何通りもの道筋があることが判ります。
地図に記載がないもの、現地で初めて目にする道。
そして、けもの道も。
どこをどのように歩くのかは、人それぞれの自由です。
但し、誰も・どこにも生命の保障をしてくれることはありません。
大袈裟な例えではなく。
決して甘く見ず、決して軽率な行動をせず。
人生という道も、どのように歩むのかは、人それぞれの自由に違いありません。
そして、山道と同じように、その全責任は自分にあるということ。
借り物の体をどのように使うのか。
限られた寿命の中で、何を学び何を得るのか。
それなのに、
口にする食べ物に十分な意識を巡らせることなく、知らず知らずのうちにその「大切な借り物」を蝕んでいることさえ理解せず。
口にする言葉に十分な配慮をすることなく、知らず知らずのうちにその「大切な意識というエネルギー」を汚染させていることにも氣づかず。
挙げ句の果てには、
その「大切な借り物」を痛め、病という名の結果を具現化させてしまいます。
その因果を考えることなく、運が悪かった、と自身の責任を顧みることさえせずに。
その「大切な借り物」をよくない言葉という波動で汚し、望ましい意識状態を維持することさえもできずに。
わたしたちは、
自分自身が「体験をして初めて」理解ができるとされます。
だからこそ、その体験を重ねているのだということです。
どの道を選択するのかは、個々人の自由。
どの道を歩むのかは、その瞬間瞬間の選択の積み重ね。
すべての責任は、自分にあることを忘れ去り呟く一言。
「どうしてこんな目に遭うのか。」
「どうしてわたしだけ不運なのか。」
原因の「因」があるから結果の「果」が生じてくる。
すべては自分の責任ということなのですね。
それならば、
「これほどまでに満ち足りている今に感謝」し、
「ここまで素晴らしいこの瞬間を生かせていただいていることに感謝」する。
「因」があるから「果」が生じるという法則をいま一度思い出す機会ではないでしょうか。
決して大袈裟ではなく。
大切な体験の瞬間瞬間を、甘く見ず、決して軽率な行動をせず。
すべては自分に返る因果の法則。
すべては自分が生み出していることを知り、望ましい近未来を創造してまいりましょう。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/02/26(Sun) 22:14:19 | photo blog