身の回りの音を消してみませんか

いま、この瞬間に、必要のない音が大量に溢れている。
いま、聞く必要がない音・音楽が大量に流れている。
音楽、そしてその記録制作に携わる人間として感じること。
それは、どれだけ有名な音楽であっても、どれだけ心に響く音楽であっても、それを必要としていない人に・必要がないタイミングで鳴らし続けるのは単なるノイズにしかならないだろうと感じることです。
確かに、音楽は鑑賞スタイル以外にBGMとして有用な事例は数多く、心が休まる音楽・音。そうした存在があるのは、とてもありがたいことに違いありません。
でも、
BGMありきになってしまっているように感じるのです。
音は、そして音楽は「ここで流れていて当たり前」。
鳴っていない状況という選択肢そのものが存在していない。
そんな世の中になってしまったのではないでしょうか。
そういった感覚自体「音や音楽に対する感覚が麻痺」した状態かもしれません。
音楽を・音を消してみる。
そして、部屋に鳴り響く時計が刻む秒針の音だけに耳を傾けてみる。
あるいは、
自然の中に響く、植物や多くの生き物の語りに意識を合わせてみます。
そんなもの聞こえるわけがない!と仰いますか?
実際に森の中に入り、そのように「意識をして能動的に行動」したでしょうか。
いや、何度も森に行ったことがあるし、その時に特に氣になる音などしなかった!
そんな声が聞こえてきます。
では、
次の自由になる時間にお出かけになってみてはいかがでしょう。
そこには、「こんなにも多くの音」が響き渡り、「こんなにも生命感を感じる音」に満ちていたんだ!と、驚くはずです。
氣のせい。という言葉が誤認識されてきたのと似ているかもしれません。
それは思い込みにすぎない、取るに足りないことだ。と刷り込まれてきました。
これこそが支配者による洗脳であったこと。
氣のせい、とは、氣というエネルギーが目に見えないレイヤーで影響を与え「そのエネルギーが作用していますよ」と、感じている状況を示していたはずです。
わたしたちは、
「当たり前」という言葉で語られるすべての事項に対して、「当たり前ではない」事象を考え・その状況を意識することさえもできなくなってしまったようです。
音や音楽が満ち溢れている生活。
それは、当たり前であって、併せてとても恵まれた環境には違いありません。
でも、それが「ノイズ」になってしまい、極めて重要な心のセンサーを台無しにしている可能性について、いま一度考えてみてたいと思うのです。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/02/16(Thu) 21:18:01 | New Age