体を使わせていただいて学ぶもの

今日は昨日とは異なり、ザルで流水を掬うかのような感覚は消滅しました。
代わって、会話をする向こう側の人が発する「色」のようなものを感じた日でした。
明るい色、あるいは別の人からは、どちらかと言えば重い感覚の色。
それは、色彩感としてのオレンジだとかグレイだとか、そういったイメージではなく、漠然とした何らかの印象として。
そして、ハッと氣がついたことがあります。
「色のようなもの」を感じるのですが、それは上記のような「色ではなく印象」にしか過ぎないもの。
あぁ、まさにこれが人の発するエネルギーなんだな。と。
重ねて理解が進みます。
色は「この世この地で、特定エネルギーの周波数帯域を可視光線として認識」しているという既知の事項。
他方、
「色のように感じるけれども色ではなく=感覚としてイメージする」ものは、可視光線帯域ではないエネルギー(これこそがオーラ?)を捉えたものではないだろうかと。
わたしたち人間が、この「お借りしている体」を使って体験しているもの。
その一つが、この物質次元に存在する「色」の認識なのではないかな、と極めてストレートに伝わってきます。
これをさらに拡大してゆきますと、まさに「体を借りているからこそ体験できる」ものばかりであると氣がつきます。
--可視光線帯域の振動として「色」を認識します。
--可聴帯域の振動として「音」を認識します。
もっともっと広げてゆきます。
--熱い・冷たい、という触覚。
--口にする食べ物から感じる味覚。
--美しい植物から香る嗅覚。
こうして、五感とされる感覚を通して、体験を積んでいるのだなと理解できます。
これらを土台として、複合的な体験が無限に存在していることが判ります。
皮膚が細胞組織を保てる範囲を超えた温度の物質に触れると「やけど」します。
この例をはじめとして、体が備える組織の限界を超えることによる「損傷」を学びます。
この次には、その生体維持の条件を超えたところで発生する「病」を体験してゆきます。
ここまで来て、さらに氣がつくこと。
これこそ、まさに幼少期の子供時代から成長を重ね、人生経験を積むことそのものだったことに。
そして、それは、体験をし学ぶ必要があったからこそ「目の前に出現しているのだと」いうこの世の仕組みに理解が至ります。いま、ここまで到達して、その具現化は「自分の意識・心の振動周波数」によって変化を生じ、因果の法則と絡み合って現実となる事実(自分の意識が自分の現実を創る)に、ようやく手が届いたのではないでしょうか。
素晴らしい仕組みだと、驚嘆することしかり。
素晴らしい仕組みを体験させていただけることに、感謝するばかりです。
卒業式は、もう目の前だと語られているその深い意味。
平伏して頭を下げ、礼を心から捧げざるを得ない素晴らしい現実に。
言葉がありません。
この借り物の体を使って学ばせていただけること。
体を使わせていただくからこそ、学べるもの。
だからこそ、
「口にする(食べ物)には十分すぎるほどに意識をし」、
「口にする(言葉)にも十分すぎることなどない配慮」が必要なことに。
そして、
すでに、満ち足りていることに理解が及びます。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2023/02/10(Fri) 21:27:08 | New Age