実りの季節に感謝

わたし自身の手では、米の一粒とて作り出すことができません。
その昔、祖母が、茶碗についたお米の一粒一粒まで綺麗に食べなさい。と教えてくれたことを思い出します。
それは、稲という生命に対しての感謝と、お米を作っていただく方々への感謝と。
ええ、その幼少時期の意識でも、お米が植物としての生き物であることは理解できましたし、農家さんが田植えをしてから長い長い工程を経て、ようやく食卓にまで届くこと。
そこまでの理解はできていたはずです。
ですが、
年月を経るとともに、じっくりとその事項について考える機会は減ってゆきます。
あらためて、生き物なんだぞ、作っていただく人がいるんだぞ。
そのように大上段に構えて意識しなくなってゆきます。
だからこそ、
こうした風景に出会ったならば、もう一度思い出してみても良いのかな、と感じます。そして、先般の投稿のように「感謝に、しすぎることなどない」はずだと再認識するのです。
面と向かって、こうした感覚を語り、こうした言葉を書くこと。
それは、ええカッコしいだとか、自意識過剰だとか、そんなレベルはとっくに卒業済みだからこそ口にできる言葉だと感じます。
その行為そのものが、心を通して目に見えない世界に繋がることを理解し始めますと、ことの重大さといいますか、その大切さを噛み締めるとともに、先人(それは大正生まれの祖母の世代でさえ)は、ここまで深い教えを伝えてくれていたのだ、と驚くとともに、あらためてその事実にも感謝をしなければ、と思うのです。
感謝に、しすぎることはないですし、ひたすら御礼を伝える氣持ちを大切に。
と、感じた神無月のひとコマです。
この場で、ともに同じ方向のエネルギーを束ねていただけるみなさま。あらためて貴重なご縁に感謝申し上げます。
併せて、常に強力な導きのエネルギーを送り続けていただく諸先輩方・高次存在への感謝の言葉を忘れぬように。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2022/10/07(Fri) 11:04:42 | New Age