見えるものを観なさい

「見える」と「観える」。
その差は、
前者は、意図せずとも視覚として認識するもの。単に視野の範囲に見えているもの。
後者は、自らが能動的に意識してそこに集中すること。
といったように思われます。(主観に過ぎないので、正式・正確にはお調べになってください。)
「見えるものを観なさい。」
明け方には、このようなアドバイスが入ってくることがよくあります。
明確な言葉としてではなく、感覚的な告知のような流入とでもいう感じでしょうか。
「見えるものを観なさい。」
それは、無理をして目に見えないエネルギーを探し求めるのではなく、意図せずとも視界に入ってくるこの物質社会の結晶化成果物を、よく観察してそこに何が示されているのかを理解しなさい。
という意味だと捉えました。
確かに、目に見えないもの・目に見えない力。そうしたものに「無理に意識を配る」ことによって背伸びをするのではなく、この物質次元では、結晶化物質化したものを体験し学ぶことが目的だったのですから、その「目の前に見えている」ものを堪能しなさい。と伝えられているのかもしれません。
あるいは、
もう、それらは卒業したんだから...と、何もかも捨てるのではなく、別れを惜しみながら最後に味わい尽くしなさいよ。とも取れるように思います。
誰も見向きもしない道端からも、会話しようとする信号が送られてきています。
それを受信するかどうか。
自分の受信機の周波数をそこに合わせるかどうかなのだと、頭では理解していても、他の考えや思考が存在していると、チューニングできないこと。この4年ほどで実体験を重ねているところです。
何も考えず、何も意識せず。
そうした状態のときにこそ、道端から発せられる信号を受信できることに氣がつきます。
確かに、見えているはずなのに見えていない、このエネルギー。
「見えている」だけの状態なのに、そこに意識の周波数がフォーカスした瞬間に「観える」ようになること。
「見えるものを観なさい。」
今日も貴重な言葉・言霊をお送りいただいたことに感謝申し上げます。
併せて、
この場でご縁のあります多くの皆さまとともに、常に強力な導きのエネルギーを送り続けていただく諸先輩方・高次存在への感謝の言葉を忘れぬように。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2022/07/21(Thu) 20:38:25 | New Age