みかんを口にする「手・指」が、右手なのか左手なのかによって、味が違うように感じる。
以前に、そういった感覚を記したことがあります。
当時連携していたSNS上では「へぇ!今度試してみます。」
とコメントはいただきましたが、その言葉からは、返信することやいいね!を押すことそのものだけにしか意識がないSNS的心の波動がしっかり伝わってきました。
実際、試されることはなかっただろうと容易に想像でき、その後はなしのつぶて。
そして、別の記事でいいね!返し...だとかやってる姿。
それが良いかよくないか、ではなくて、自分にとってはもう必要ない世界だと。
これらの反応が、如何にも物質次元的といいますか、物質至上の世の落とし物だと感じてしまいます。
人の反応を氣にする。数を氣にする。
それらは、もはや過去のものとなったはずです。
いまだによい子ちゃんアピールや数を追いかける姿には嫌悪感さえ感じる。これが正直なところ。
少し視点を変えてみても同じでしょう。
みかんには豊富な栄養素が含まれている。だとか、一日に必要な何々の栄養分としては何々ミリグラムだ、だとか。
これらの感覚こそ、物質至上な世の中の最たるもの。
但し書き。それらに意味がないということではありません。その感覚の属するフィールドの違いを語っています。
わたしが伝えたかったのは、エネルギーを感じる感覚についてその感触を共有できる人が自分以外に存在していれば嬉しい。ともにその感覚を感じられれば楽しい。という単純なもの。
これからの世は、そのように響き合う感覚を楽しむ世界ではないかと思われます。
実際、果実のトーラス構造にはエネルギーの流れが存在することは間違いないでしょう。
そしてその流れが反対になれば、その感触は変わってしかるべきだと思われます。
枝の根元側を上にしているのか、花の咲いた側を上にしているのか。その差があるに違いないのです。
まずは、果実側にそうした真逆のフローがあることを感じてみる。
そして、
右手右指なのか左手左指なのかの違いは、自らの体そのものが持つエネルギーの流れもあるでしょう。
このような感覚・感触を「感じてみようとしてみれば」実際に感じられる。そんな時代に突入していることがわかります。
過去、これを「氣のせい=思い過ごし」といった言葉によって、その感覚をスポイルされてきました。
耳タコで失礼申します。
「氣のせい」とは、氣というエネルギー存在による影響や変化がそこにありますよ。ということを示している、この国の貴重な言霊。
そして、この果実たちが持つ力(エネルギー波動)に合わせてみようと試行してみますと...。
すると、太陽から齎される膨大な力の流れを「感じられるようにする」あなたの体にアドオンするプラグインのような働きをしますよ。というメッセージさえ受け取る瞬間が出てきます(個人的感覚:明確な言葉ではありません=感じるものです)。
果実(植物)は、食べてもらって出世(魂の成長を実現)するのだと語られています。
その対価として、人にはエネルギーを与える。そして、受け取り側(食する人間側)が望めば、こうした膨大なエネルギーにさえ触れることが可能になる。そんな世界が「すでに」ここにあります。
こうした目に見えない世界を無きものとし、そのフィールドにつながることによる覚醒を阻止されてきた歴史。
ばかばかしい!と思うでしょうか。
そんなことあるわけない!と仰るでしょうか。
そう捉えること、それ自体がご自身の選択した道ですから、良いもよくないもありません。それがあなたの感覚。
もう判断は必要ない。という感覚。
これをジャッジしない、と呼ぶはずなのです。両極で存在する、正と負の片側を見て見ぬふりをすることではありません。ここを間違えることのありませんよう。
同じ波長だけが合致する、同じ周波数だけがシンクロする法則。
嫌悪感さえ感じる旧いプラットフォームから離れ、こうした波動エネルギーに触れる体験を重ねてゆく。
その行為自体が自らのセンサーを磨き上げてゆきます。それが行動する、ということではないかと感じます。
そして、
拡大を続け精神性を高めてゆくことが、成長のプロセスであり間違いのない方向だと実感する瞬間です。
通じる人にだけ伝わればそれでよい。ともに歩むことができる方々へ。