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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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精一杯生きる

2025紫陽花 photo 宮本章光

何が正しいか正しくないか。
そんな判断さえ必要がなくなりつつあります。
自分の直感に響くものを選択すれば、それが正解になる時代に入りました。

精一杯生きる。
それは、
しなければならない...という強制されたものではなく、自ら取り組みたくなるものを選ぶという意味で。

その選択を続ける限り、自動的に望ましい道が切り拓かれてゆきます。
そして、
選択を誤る瞬間が極端に減少しています。それは、心のセンサーが極めて正確に稼働し始めた証。
そのセンサーは、口にするもの二つを劇的に変更し取り組んできた、その成果が出始めている証。

隷属化の枠組みの中で、いつまでも臣民を奴隷化しこれでもか!と故意に病を作り出し、その仕組みからカネを生み出す間違った医療の形態にいつまでも従う必要などありません。
わたしたちは、そのままで十分に健康で十分に研ぎ澄まされた勘という名のセンサーを備えています。
いま、ようやく取り戻しつつあること、誰も否定できません。
狂った魔法の粉や液にはもう近づかないことです。決して戻ることのありませんよう。


そして、これまでの世がいかに誤っていたか。ついにこれを知ることになります。
精一杯生きる。
それは滅私奉公し身を粉にすることではなく。

人間を除く他のすべての生命は、これまでもそのように生きてきたのです。
間違っていました。と頭を下げ、同じ道を歩む仲間として共に生きる決意を新たにする時を迎えています。

精一杯生きる。
とは、心に響くことに波長を合わせ、自分にできること・いまできること・今やるべきことに真摯に取り組むこと。




自分で表現してみる・これからの世

アルストロメリアがここにも photo 宮本章光

以前、あるサイトで、
「アストロメリア」なる文字を見かけたことがあります。

美しいお花の写真が掲載され、そこに記載されていた文字でした。
ん?名前が違うかな?
「あすとろ」ではなくて「あるすとろ」だと思うのですが。と感じたものの、名前などそもそも人が勝手に名付けたものであって、別にどうでもいいや、と。


自分の表現って何でしょう?
webが身近になりSNSがはやるとともに、スマートフォンアプリが進化することで、いとも簡単に自分の作品を公開することが可能になりました。
すでに当たり前、という感覚です。

この方ご自身はPC経由での公開をなさっている様子でしたが、それでも「自分らしさ」をしっかりと表現できていることが伝わってきました。
このように、多少名前を間違えようとも、自分で撮ったものを継続して発信し続ける。
この姿勢こそが、この先の世ではもっともっと大切になってくるだろうと感じます。

失礼を申し上げる意図は皆無ながら、この方の写真の色調はお世辞にも良いとは言えず、カメラが持つオートホワイトバランスの性能が低いのか、色カブリは激しくノイズも多めの写真が多数なのです。
けれど、そこには被写体としての植物の生命力がしっかり伝わってきます。

それはなぜでしょうか。
撮影者がその生命存在を本心から美しいと感じ、そしてその周波数と合致したからこそ撮影の行動にまで及んでいる。
このエネルギーが作品に包み込まれているのです。理由はこれに尽きます。

昔から、写真には撮影者の意図したものが入っている、とされてきました。
この言葉の意味は、被写体と撮影者のエネルギーがシンクロし、新しい複合体として強い力を持った波動が生まれたことを示しています。


初めの名称は、正確に記すならば、
--誤:アストロメリア
--正:アルストロメリア
でしょう。

SNSの弊害は、こうした点を重箱の隅を突くように揚げ足を取る人がまだまだ多いことです。
そして、何か意見を書こうものなら、エビ(evidence)はあるんか!ソース(source)はどこや!
と、針の筵(むしろ)になることかもしれません。

地球の波動上昇とここ数年の人間側の精神性の向上も相まって、そうした「ノイズ」は減少したことかと思われます。
また、自分自身がそのような波動に触れないようにしていればこそ、もはや必要以上に目にしなくなってきています。

ここで再度復習することは、
なるほど、触れなければその波動に影響されずその周波数に同期することもない、という学習教材。
そして、目の前に表出するのは、自分の波動が結晶化したものである、と体得した課題。
SNSさえも、学びのための教科書だったと氣がつきます。

そして、これが極めて重要。
「この先に必要のない周波数には触れない・離れる。」
並行して、望ましいエネルギーを自分らしさとして表現してゆくことも試行の価値があるでしょう。
但し、上記のようにノイズまみれの場所に突撃するような真似は避けたほうがよいかなと。
いわゆる無料Blogや無料ルームなどが当たり前のように備える「他者とのコミュニケーション」機能は、SNSと同じノイズに塗れてしまうリスクがある点を知ることも必要でしょう。


わたしは、文字に落とし込むのは大きなハードルにならないことと身近な写真も数多くあり、この場での掲載を続けています。
ご自分に最も適したものを選択し、この先、それを続けて行かれると良いのではないかな、と感じています。


【参考】写真に内包されるエネルギーなど徒然
photo-primary Blog
脱力系のテイスト2022年の数ヶ月間の記事です

https://photoprimary.official.ec/blog





何のために生きていますか

ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)に出会う photo 宮本章光

ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)。
いま、まさに季節を謳歌する彼らの姿。

こうした植物たちは、何のために生きているのでしょうか?
すべての生命は意味もなく存在しないこと、ようやく理解できる人たちが増えつつあるように感じます。


花を咲かせるには、咲かそうとする「意思」がまず初めにありきとされます。
植物自身が「咲かそうとしている」それが彼らの意思表示だから。
では、
咲かそうとする意思がないのなら、結果はどうなるでしょうか。
当然ながら、花は咲かない。となりましょう。


さらに進めて、それならば、何の目的で咲いていますか?
それは、植物に聞いてみないとわかりません。
でも容易に想像できるように思います。

種の保存・存続といった目的もあるはずです。
けれど、単に美しくその生命存在として、いまを生きている。それだけでよいのだ、と氣がつきます。


人間はアタマが巨大化しすぎたのかもしれません。
それは物理的な容量容積という意味ではなく、この地の二極化・二元化の体験をするために獲得した「我」という名の必要悪とさえ感じる思考回路のことです。

何でも理由をつけて分類する。
その「クセ」がいつまでも「我を張って大きな顔をする」のです。
---○○は◇◇でなければならない。
---XXは△△でなければならない。
そうやって限定し、無理に制限し、その不自由さを楽しむ地だったこと。
「何の目的で花を咲かせるのか」など、その最たる発想・思考だと判ります。そんな理由付けなど必要なかったのです。


目的がないとダメなのか。目的があることが「偉い」のか。
それも教育洗脳だったと氣がつきます。
ええ、
目的はしっかりとあります。

「美しくその花の姿を披露する」こと。
「季節とともに美しくその姿を謳い表現する」こと。
それが目的でしょう。
それで十分でしょう。


人間は何のために生きていますか。
いまこの瞬間に、美しく・心地よく望ましいエネルギーを生み出すためだったのです。
この地・この世を、穏やかで生きやすく素晴らしい地として築き上げる。そのために心から穏やかに波動を生み出し創り上げる役目があったのです。
(ですから、すでに崩壊が決定している旧い残像でしかないエネルギーに心奪われ、踊り叫ぶのは恥ずかしさの極みなのだと。)

学を重ね、知識を溢れんばかりに蓄積することも、もちろん素晴らしいことだと感じます。
でも、そのアーカイブは、
「いつ・どこで」披露しますか?
「いつ・誰の」役に立てますか?

どれだけ蓄積しても、どれだけ積み上げても、それを生かさねば意味がないことに氣づきますでしょう。
まして、この世を負のエネルギーで支配したい者によって捏造されたものは、この先、何の役にも立ちません。
一刻も早くここに氣づく必要がありましょう。


いま、生きているだけで、美しく素晴らしい花を披露するだけで、それだけで目的を果たす彼らの姿。
その周波数に合致し共鳴したからこそ、この一枚がここにあります。
そしてそれを伝えることにより、その美しく素晴らしい波動がご覧いただく方への共有体験となってゆきます。
彼らは、それだけで意味のある生命存在であり、大いなる意義のある花だったことが理解できます。
わたし自身も、画像と文字との複合・結晶化によってその役目を果たせます。


この先の世は、
誰にどのように役に立てるのか。
誰とどのように共有体験を築き上げるのか。
この点が極めて大切な項目になることがはっきりと判ります。

何のために生きていますか?
その答えは、
植物たち、彼らが披露するその美しい姿に表現されています。




すべてが周波数だと知ったなら

矢車菊が語る photo 宮本章光

色も音も、周波数の違いによってその差を認識することができます。
赤い色、緑の色。
高い音、低い音。
それぞれ、周波数が異なるから違いがあるのだと。

単刀直入に。
では、その周波数は目に見えますか?
ええ、はっきりと見えますでしょう。色の違いとして。
けれど、音の違いは目に見えますか?見えませんね。

これほどまでに明確で単純な仕組みなのに、いまだに「目に見えない」ものは信用できない。
などと豪語するのは、もはや自分自身が化石レベルの遺物だ。と語っているようなものでしょう。
もっと言えば、この先の世では必要とされない存在です、と自分から宣言している状態かと。
それは、科学的思考という名の宗教だったのですから、とっとと卒業することです。


すべては波動エネルギーであり、すべてが固有の周波数を持って(維持して)いるからこそ、その存在を明確に認識できます。
これは、科学的思考から攻めてもあるいは精神的観点から演繹しても、いずれも破綻することがありません。

この両輪の仕組みがすべてであり、片側だけの科学のみが正解、もう片側の精神性からの観点は嘘っぱちだと洗脳されてきた捏造の歴史。
これ以上は記す必要がありません。

善と悪や、光と影もそう。
それぞれがセットで対(つい)だからこそ、バランスを取ることができます。
そして、それぞれが固有の周波数を維持しているからこそ、それぞれの存在が存続し続けます。


ここで落とし穴に落ちないように注意することは、
「自分はテレビを見ても負の周波数に陥ることはない」
「ネガな波動に揺らぐほどヤワじゃないからメディアに触れてもSNSに居ても大丈夫」
などと、これまた大言壮語を発する行動。
(このような発言をする人たちも、もう消滅してゆきました。)

これ、何も解っていない証明だね、と多くの人が氣づくようになってきました。
そのワードを発言している時点で、その言霊が持つエネルギーにシンクロしてしまっているのです。

自分は決してブレない芯があるから、だとか、絶対洗脳されない、などと言うのは、言霊と周波数の関係を一切理解できていません。
該当ワードそのものがエネルギー存在なのです。
言葉そのものが、その言葉を示すエネルギー波動として存在しているということ。

よって、凄惨なニュースに触れた時点で、その事故や惨事を伝える「言葉」の周波数に同化してしまいます。
エネルギーとはそういうもの。
周波数とは、そのようにシンクロするもの。
ここを学ぶ必要があります。

だから離れるのです。
ですから、無条件にまず離れる、まず見ない聞かない言わない。
今日、いまこの瞬間から実践できるはずです。


いつまで「仕組まれた落とし穴」である負のエネルギーに触れ続けるのですか?
いつまで「自分が同期する」ことによって、その負の波動を生み続け維持し続けるのですか?

すべてが周波数である。
と知ったのなら、この先に必要とされる周波数だけにフォーカスすることです。
それは、
見るだけでも、聞くだけでも、文字に触れる・言葉を認識するだけでも合致し共振するという仕組みを、しっかりと体得し体現することが必要かと思われます。

これを「やらない」限り、この世・この地は決して変わりません。
どこかの大統領がやってくれるのではありません。
自分が、自分自身で、望む周波数を生み・維持することで望ましい道が創り出されてゆきます。

これを「選択」というのではないでしょうか。





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