おばあちゃんの知恵袋アーカイブ18本:転載
私の母方の祖母(大正生まれ:96歳で他界)が、今から約50年ほど前に私に語った言葉を、当時の記憶を辿りながら綴ります。
50余年も昔の言葉ながら今の時代にも十分に通用する内容であり、今こそ、その深い意味を日々の生活に活かすべき時、と考えています。
[宮本章光の視点/noteサテライトより2023年8月転載・移植]
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●「有限」を感じ楽しむこの地この生
Original=2023年6月19日 20:43
自分自身の残り時間がカウント可能な時期に入りつつあるからでしょうか。
「有限を楽しむ」
すべての事象・事項、あらゆるものに対する、その有限の感覚を大切にしたいと思っています。
残りが少ない。
と心に抱けば、残り少ない現実がクローズアップされるでしょう。
まだまだ残りは十分ある。
と意識を持てば、まだまだ如何様にも展開できる世界がライトアップされるはず。
どちらを選ぶのかは、その人自身、そしてその瞬間の感覚次第。
以前の記事【少しくらいキズがあってもいい】[Link]
で触れていましたように、
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負の力に蓋をするのではなく、見て見ぬふりをするのでもなく。
それをしっかり受け入れた上で、貴重な体験をさせてくれてありがとう。
と尊重し感謝へと昇華させます。
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このような、どちらの極みも味わい尽くせる。
そんな稀有な体験をさせていただけることに悦びの感覚が湧き上がります。
制限時間があるから、面白さや難易度が急上昇するゲームがあります。
まさしく、この地での「うまく行かない現実ゲーム」にも時間制限があるからこそ面白さが飛躍的に高められるのでしょう。
それは、このお借りしている体という物理実体を「使わせていただける期限」という意味において。
第3回目となる2023年の梅。
かなり色目も変化してきており、日々時間が流れていることを感じます。
いずれも、綺麗でなければならない。だとか、あるいはwebに出すのなら美しく撮影し、美味しそうに見えるように画像処理しなければならない。
そんな条件や制限を自分から設定せずに、「梅の神様」と会話してみたいと思うのです。
初めは、何も語らず・何も感じず、頑として固体のまま動じずコミュニケーションはできません。
ところが、
今回もウチに来ていただきありがとう。と感じながら眺めていますと、そこに熱量の変化とでも言うべき感覚でしょうか。暖かみが伝わってくることが判ります。
そして、ある瞬間を超えますと、突然、嗅覚に訴えてきます。
とてもいい香りとして、強い力が、ドンと送られてきます。
(それまでも周囲にはいい香りが満ちていましたが、さらにレベルを高めて突然強く押してくる感覚です。)
照明も満足には当たらず、薄暗い部屋の片隅に置かれています。
傷がある個体もそれなりに混ざっています。
でも、大変美しい「香り」のパワーを受け取りました。
おばあちゃんの知恵袋(マガジン)[Link] でも何度か触れてきていますように、すべてのモノ・生き物・対象には「神が宿る」という、日本古来の神道の心に通じるような教えの数々を、幼少時期に語ってくれた祖母。
いま、この世には存命していませんが、現在のわたしの横で、
「梅の神様に御礼を言いなさい。そうすればきっと美味しくいただけるようになるから。すべての食べ物には命があり神そのものなのだから。」
と、五十数年前と同じように語ってくれている氣がします。
そこには、
存命していないからこそ、その教えを心の中にリフレインできること。
有限であるからこそ、感謝の心を忘れずに過ごす生き方を大切にすること。
ここに意識が到達します。
有限を感じ、それを楽しむ。
素晴らしい体験をさせていただけるこの地の仕組みに感謝の氣持ちが溢れます。
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●口にするものには十分すぎるほどに心配りを
Original=2023年6月9日 20:05
わたしの人生大失敗シリーズ(まさに連作になるほど繰り返しました)の、その根本の原因は「体を大切にしなかった」ことでした。
借り物の、この大切な体を痛めつけた因果は、大き過ぎたのでしょうか。
強制終了の合図が発令されたこと。この場でも繰り返し綴ってきました。
何を食べようと人の自由です。
何を口にするのも人それぞれ。
ですが、
口にするもので、且つ販売されているものに「体に悪いものがあるわけがない!」といった反論をする前に、ご自身で十分に調べ上げることです。
一旦、そこでキッカケを得たならば、決して元に戻ることはできないはず。
そこまで断言できるレベルかと思われます。
よく、webには誤った情報とノイズしかないから。
だとか、
国が許認可しているのだから。といった枕詞は要りません。
また、ここに来て「直感」を信じる!
といった言葉に共感できる方々が増えてきています。とても嬉しい時代になりました。
ところが、そう仰るわりには、まさに「体に悪い」とされるもの、あるいは化学合成により生成・構成される原材料が大半であるようなたべものを羅列されweb公開ている事例。少なくないように感じるのです。
直感・勘がどうも冴えない!
その言葉の裏側には、まさしく「食べ物」によって、その感覚や感情が著しく劣化してしまうこと。わたし自身、数多く体験してきたことも書き添えます。
季節を感じながら、その自然の恵みに感謝を捧げます。
その心こそ、このお借りしている体の「最高管理責任者」の責務と思っています。
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●言葉づかいには十分に氣をつける
Original=2023年4月18日 21:09
色々な考え方があり、さまざまな生き方があります。
人それぞれ。
すべて自由であり何ものにも束縛される必要はありません。
でも、
「口にするもの(言葉)」には、十分すぎるほどの心配りをしたいと思います。
それは「音」として口から発する段階に至らぬまでも、心に描くだけであっても。
「言葉になる前にその感情を心に描く状態」。その段階において、目に見えないフィールドには、既にエネルギーとして生成されていることを知るならば。
だからこそ、
心に抱く感情、心に描く意識に「責任を持つ」重要性、そうした部分が多く語られ、そして頻繁に目にするようになってきたこと。
ここに理解が追いつきます。
-- 一人くらい、何を考えようが、何を喋ろうが大したことないやろ。
-- 文句を言おうが愚痴ろうが、そんなもん人の勝手や!
こうして、個々人が心に描くものが集合体となり「大きな力」となってゆきます。
この重要ポイントを逆手に取って、この地を・この世の中を支配してきた少数の特定支配層が存在していることを、もうここで重ねて記す必要はないでしょう。
だから、世の中にはネガな情報が蔓延しているわけでして。
(この文言の意味が通じない方々とは、ここでのご縁は繋がっていないはず。)
まんまと、その策略に引っかかってしまうと「その負の力を増幅する」そんな立場、いわゆるワルもの側に、あろうことか自分がレギュラーメンバー入りしてしまいます。
(そして、氣づかぬうちにたっぷりとマイナスポイントを貯め込んでしまい、来世以降にもそのザクザク溜まったマイナスポイントを解消するための苦悩:因果が待ち受けています。)
あるいは、
自分の心の状態を感知するセンサーが「腐っている」と、ネガな力に憑依されていることさえ氣づくことができません。
(これは、口にする「食べ物」のほうが大きな影響を与えていることも判ってきました。)
みんなでより望ましい未来を描きましょう。と、過去からのすべての負の感情を浄化し、本当に苦しいプロセスを踏んで成長を重ねてきたはずです。
苦しみ・もがき・のたうち回る。
その苦しさを味わったからこそ、「もう二度とその力には意識を合わせない!」と誓い、クリアし、そこから離れた人だけが、階段を一段あがることができたはずです。
そうした体験を積んだからこそ、もうそのエネルギーには合わせないだけのこと。
ところが、
その苦しみを、肉体的にも精神的にも、本当に極限まで味わったことがない人には理解できないのでしょう。
「何を浮ついてんねん!フワって嬉しいか!バカなやつ!」
「お花畑は脳天気で結構なこった!」
としか見えないのですね。
大人になり、年齢とともに人生経験を重ね、人の厚みや重み、といった内面を熟成させて行くにつれ、そうした「負の力を込めた言葉」から離れてゆきます。
そこにに、何らメリットがないのみならず、何も望ましい現実を具現化するためのエネルギーが含まれていないことが判っているからでしょう。
おばあちゃん(わたしの祖母:大正生まれ96歳で他界)が、幼少期のわたしに対して、何度も何度も「口にするものに注意しなさい」と繰り返して語った理由。
その本当の意味。
同じ世代となる、十干十二支が一巡りしてくる歳回りを迎え、はじめて理解が到達したことを嬉しく思います。
「そう思うから、そのようになる。」
それならば、
何を思い描きますか。
何を心に抱き現実化させますか。
ともに望ましい未来を具現化させるべく歩みましょう。
「口にするもの(言葉)には十分に氣をつけて」
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●そう思えばそうなる・エネルギーの仕組みが神そのもの
Original=023年4月13日 20:00
息切れしていませんか。
卯月13日。
学校は新学期をスタート。世の中、新年度。
日差しは一氣に春を迎えましたが、寒暖の差が大きく、体の弱いところから邪を取り込みがち。
何だか、微妙な花言葉だそうですが「オダマキ」さん。
そう思えば、そのようになるだけ。
自分の心に描くものが、目の前の現実として具現化する、この地の仕組みです。
その仕組みは、エネルギーの流れと向き・螺旋、その振動周波数により生成されていること。
そして、そのエネルギーの仕組みこそが「神」そのものであったこと。
日本人は、この極めて重要な仕組みを「習わない=故意に外され学ばぬようにされてきた」ために、肝心要(かんじんかなめ)の部分を知らぬまま過ごしています。
後世に伝えるために、物語として語ってみたり、擬人化してみたり。
先人は、あの手この手で、わたしたち後世の者へ、その仕組みを伝え残す努力をしてくださったのです。
それは、誰か・あるいは何か、救世主たる人格としての存在があったのではなく、この地のエネルギーの仕組みそのものである、と知る機会を迎えています。
それは、教科書に載っていないから知らなかったのかもしれません。
それは、親から教わらなかったから知らなかったのですね。
昨日まで、いえ、この瞬間まではそれでもよいでしょう。
でも、今日からは「自分の心に響くもの」を選択する道を歩み始めたのです。
そして、
「おばあちゃんの教え」の中には、このような大変貴重で重要な仕組みが盛り込まれていたこと、この場でも何度か綴ってきました。
エネルギーの「仕組みこそが神そのもの」であったと。
僅か二世代前の、手取り足取り接することのできる肉親から指導を受けた、数々の教え。
いま一度、思い出す時を迎えています。
「そう思うから、そのようになる。」
では、
何を思い描きますか。
何を心に抱き現実化させますか。
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●言葉にトゲを生やさず・トゲを埋め込まず
Original=2023年4月10日 21:16
言葉にトゲ?
なかなか難しい感覚でしょうか。でも伝わる感覚だと思っています。
このところ、そうした感触を強く感じるケースが増えています。
それは「違和感」から派生した感覚と言えばよいかもしれません。
そして、その違和感が「良い方向への違和感ではなく」よくない方向へのムズムズ感を伝えるのです。
自分自身が、過去から大量にそうしたワードを放出してきたことに対する自覚もあります。
過去、その時点では、何の違和感も感じませんでした。
いえ、むしろ「ああ、スッキリした。」とでも言えば良いのでしょうか。文字に落とし込むことによって「ストレス発散」した。とも置き換えられる行為でした。
いま、そうした「トゲのある」言葉を放つことによって、目に見えないフィールドに「トゲのあるエネルギー」を生み出していることが理解できるようになりつつあります。
言葉をwebに記すだけではなく、心に描き・心に抱くだけで、そのトゲが目に見えない力として「何もなかったところに産まれている」ことを。
もっと正確に書くのなら、
「何もなかったところに負のエネルギーを自分が生じさせた」でしょうか。
そして、その力は、非常に強力に「心を突き刺す」ことが分かってきました。
トゲなので、痛い!と。
指先なら、痛っ!で済むでしょう。ところが、心が受けるダメージは非常に大きいようです。
言葉に込めた「心の状態」。
言葉に載せた「氣持ちの色合いや明暗差の感情」。
そうしたものが、一つひとつのワードに、まるでHTMLで言うところの「エンベッドタグ」に埋め込まれているかのように。
ブラウザで表側を見ている限り、HTMLソースは見えません。
でも、ここには動画をリンクしていますよ。だとか、ここに埋め込み記事が表示されるようにしていますよ。という指示があるのと同じように。
あるいは、
写真画像データに埋め込まれた、撮影時の機器設定や撮影時刻・位置情報までも含まれる「Exif情報データ」のように。
「言霊」と言われているものは、実はこのエンベッドタグのリンク先にあるエネルギーだったのかもしれない、と。ええ、もちろん例えですけれども。
だからこそ、
「口にする言葉には十分に氣をつけなさい」と、幼少時期のおばあちゃんの教育は口すっぱく伝えられてきたのだと、今になって理解したような次第です。
少なくとも、トゲを埋め込んでいる限り、そこで自分が生み出したトゲは自分に戻るわけで。
いえ、自分に戻るだけではなく、せっかく「真っ白に洗い上げた新生活を彩るための純白のドレス」に、ドス黒く汚れた負の力を含む液体をぶち撒けるような行為だけは避けたいと思うのです。
これから先に「何を望み何を願い」ますか?
言葉に「何をエンベッド」しますか?
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●もっともっと勘に委ねてみる
Original=2023年3月1日 20:29
もっともっと勘に委ねてみる。
何のこと?
といった感じですが、直感に響くものは、その内容もタイミングも意図せず降りてくるので、そこに任せてしまえば、答えが自動的に導かれます。
はい、わたしの人生、この連続です。
これに逆らえば、答えは出ないのでしょうか?
いや答えは出ます。必ず。
出るか・出ないか。ではなくて、望ましい結果になるか・ならないか。
この対(つい)だと思われます。
そして、これをもっともっと進めてみます。
進めるとは、さらに委ねるウエイトを高めるという感覚です。
「できる!と感じれば結果が出る。」
「できない!と感じたなら結果は望むものとは異なる。」
これだけです。
そうすれば、そのタイムラインが自分自身の意識によって創られてゆきます。
瞬間瞬間に描いている意識が、その結果を導いてゆきます。
一点の曇りもない、その心から願う意識が、その結果に書き換えて行きます。
もう多くの方々が経験しているはずです。
さっきまで腫れていた指先が、氣がつけば綺麗に治っている。
肩が上がらないほどひどい関節痛が、1日で消滅している。
これ、ご自身で体験・体感している人体実験ではないでしょうか。
その逆もあるでしょう。もう言葉には落とし込みませんが。
幼少の時期を思い出してみます。
その昔「痛いの痛いの飛んでいけ〜!」と、おばあちゃんに手を当ててもらった経験、ありませんか?きっとあるはずです。
手を当ててもらうとアラ不思議、その次の瞬間には「ホントに痛みが減少」したのではないでしょうか。
手を当てるから「手当てする」のですね。
この国の言葉と意識は綿密に結びついていること、あらためて素晴らしい国で生かせていただいていることに感謝するばかりです。
でも、痛みが飛んでいったはずなのに、その直後に「再び痛く」なりますよね。
「痛い痛い、怪我してる!」と、そこにフォーカスし続けるからでしょう。
ええ、実際にひどい怪我なら、その傷の度合いが、意識でレイヤーをひっくり返す力よりも激しいため、無理もありません。
もちろん、緊急を要する場合にはそんな悠長なことは言っていられませんので、それはそれで「物理次元の歩きかた」に基づいた処方は必要ですが。
委ねる。
結果が導かれる。
信用・信頼する。
さらに委ねる。
さらに任せる。
このループを無限に拡大し続けるなら、きっと本来備わっていた潜在能力を取り戻せるに違いありません。
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●口にするもの(言葉・食べ物)に注意しなさい
Original=2023年2月19日 21:42
おばあちゃんの知恵袋シリーズ。このところ意識から外れていたのですが、ふとした拍子に思い出したものがありますのでここに記します。
この場でも何度か触れてきましたが、大正生まれの祖母が50年以上も前に幼少のわたしに語った多くの言葉。
その中の一つから。
「口にすることに注意しなさい」
祖母が語ったのは、その瞬間には「言葉に対して」でした。
わたしの4歳年下の妹(一昨年2021年に、生まれ故郷の星に帰りました。)と、当時なんだかんだと言い合いをするのは日常茶飯事の風景でした。
小学生と就学前の子供の会話なので、取るに足りないことです。
この様子を横で見ていた祖母は、
「人のことを言わずに自分がどうしたいのかよく考えなさい」と。
そう、妹や兄が何をどう言おうと、自分は何を考え、何をしたいのか。
しっかりと自分の考えを持ちなさい、との意味だったとその時には理解したのでした。
ところが、その後すぐに続けて、
「口にする言葉には神様が宿る」(正確な言い回しはもう忘れてしまいましたが)
だから、汚い言葉や軽蔑するような内容の言葉を口にしないこと。と。
人のことを、とやかく言う以前に、言葉そのものに対して「言葉には言霊が宿るんだよ」だからもっともっと大切にしなさいよ。ということをわかりやすく教えてくれていたのでした。
よろしくない方向のエネルギーを言葉に込めると、それが作用するんだから氣をつけなさい。との指導だったのです。
この後にも、
そうやって言葉として放ったエネルギーは、形と時間を変えて自分に返ってくる。といったような、今でこそ十分に理解が可能な内容の発言もあったように記憶しています。
(機会があれば、これらもアーカイブしてゆきたいと思います。)
これが、「口にする言葉に氣をつける」という、とても大切な教えでした。
もう一つ。
「口にするものに氣をつける」は、食べ物に対しての内容についても、何度も何度も教えてくれていました。
過去記事「有名企業の食べ物を口にしない」[Link]
口にするもの。
それは「発する言葉」だけではなく「自分の体に取り入れる食べ物」についても、しっかりと意識をしなさい。との教えでした。
上記記事のように、いわゆるTVCMで流れるような食品は避けるべきだよ。ということを伝えてくれました。
その理由は、こうした公の場では詳細には書き記すことが難しいので、上記記事内容から汲み取っていただけますと幸いです。
近年、このように「口にするもの」が、いったい何もので作られているのか。そしてそれを摂取することにより何が体内で起きているのか。
ここに関心をお持ちになる方が一氣に増えた感覚があります。
それだけ、個々人の意識が高まった証でしょう。
それなのに、
いまだに、ジャンクフード(それは、ファーストフードやコンビニ系も含まれるように思います)を、食べ続け、それをSNSで流している人たちを見ていますと、とても残念な感覚になるとともに、早く氣がつくといいね!早く変わるといいね!
と、心から波動を送るようにしています。
重ねて、
食べ物として命を捧げていただいている生き物に対しても感謝の氣持ちを忘れないように。
こうした、とても重要なことについても、しっかりと教えてくれたのでした。
わたしのおばあちゃんが50年以上も前に伝えてくれていたこと。
多くの人たちに届きますように。
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●今年2023の味噌作りに思う
Original=2023年1月16日 22:03
今年も味噌作り。
いえ、わたしは素人なので写真を2枚撮って終わり。
昨年2022年の味噌はすばらしい出来栄えで「現時点での一年もの」の熟成がさらに進んでいます。
(昨年2022年の味噌作りから派生しての記事)
この体は「借り物」。
もう語り尽くされてきました。
病は故意に作り出され、それに呼び名をつけて治療という名の「薬」に頼り続けざるを得なくする仕組み。
マッチポンプならぬネガティブ無限ループ。
薬という魔法の粉や液体に化けた石油利権・医療利権の仕組みに氣がついた人から、そのループを抜けて行きます。
はい、ループに浸り続け、さらに学び続けるのも自分の意志、ご自身の判断です。
このところ、あちらこちらで急激に増加してきた感があります。
余命宣告、自分は苦しんだんだ。というような。
(自分の意識がそこに向いているからシンクロしてきたのだと思います。もうそうしたエネルギーからは離れようと思っています。)
はい、大変なご経験なさったのですね。それは大変でしたでしょう。
大変なんてレベルではないのですね。苦しかったですね、痛かったですね。
その瞬間には、のたうち回る苦しみを味わうのですから。
わたし自身もあと少し遅ければ...と言われ、鮮血やドス黒い血塊に背筋が凍りつきました。
問診直後からストレッチャーに寝かされそのまま入院という体験は一生忘れません。
そして、
次に傷めたら「切って捨てる」とまで宣告されました。それ、両親に作っていただいた大切な体の一部。そして天と地からお借りしている大切な体なのに。
そう安易と捨てるだとか言うなよ。ってことです。
でもね、それは自分の食をはじめとする生活によって齎されたものです。
借り物の体の「最高管理責任者の責務」を果たさなかったから。
できなかった。のは、言い訳。できないのなら、できるように環境を変えるのが責任者の責務。
毎日満足に食事もできず、朝の5時半まで仕事し帰宅してシャワー浴びれば再び出勤。まともに眠ることさえできないので居眠り運転・事故多発。
そして体が悲鳴を上げました。
あるいは、そうでなくても過去因果の解消のために苦しんだ方もいらっしゃることは理解しています。
それを否定する意図はありませんし、大変な思いをされたことは理解しています。
だから、です。
もうそうした体験は要らないのです。そこにフォーカスするのはやめましょう、と。
学びのために必要な体験をしたのですから、学び終えたのなら、もう要らないのです。
やめるとは、体によくないことをしない。ということ。
そして、そこに周波数を合わせること自体から離れるということ。
体が作られているのは「口にする食べ物」。
だからこそ、そこを見れば「その人」のすべてが見えるのです。どういった食べ物について語っているか、その時点で推して知るべし。いわずもがな。
食べることは、その食べ物としての生き物の「いのち」をいただくこと。
おかげさまで、わたしは生きてゆけます。ありがとう。
だから
「いただきます・ごちそうさま」。
だから、
口にする食べ物には十分に意識を巡らせ感謝を忘れてはならないと、おばあちゃんに教えてもらったのです。
今年もすばらしい大豆さんに巡り会えてありがとう。
今年もすばらしいいのちに触れることができたことに感謝申し上げます。
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●感謝の心を忘れないようにしたい
Original=2022年12月13日 13:54
やはり師走。
一日おきに長距離移動と過密スケジュールが続きます。
さまざまなご縁と、さまざまなシチュエーションに感謝申し上げます。
ありがとうございます。
ひるの時間帯は、スマホ片手に弁当に喰らい付く。列車の隣席ではそんな姿も頻繁に目にします。(見ず知らずの方々…)
口にするものにも、感謝を忘れたくないものですね。
「おばあちゃんの知恵袋」の記事、いま一度かみしめ、その心づかいに胸が熱くなります。
行いは、必ず自分に返ってきます。
心に抱くものも、必ず戻ります。
感謝の心。
万物の元締めではないかな、そんなことを感じながら。
ありがとう。
感謝しています。
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●Harf minute Imaging16
Original=2022年12月4日 20:20
[Link]
https://youtu.be/FSs-48N0DwI
「足るを知る」
「感謝を忘れず」
わたしたちは、いつからこうした言葉を忘れてしまったのでしょう。
いえ、望むことが悪いのではありませんし、希望を抱くことを否定しているのではないのです。
「もうすでにある」ものに心を合わせず、そこに「感謝」を捧げず、自分はもっと別のものがいいんだ、もっと他のものが欲しいんだ。
そんな幼少期のワガママなわたしに「感謝の心」を教えてくれたのは大正生まれの祖母(96歳で他界)でした。
その昔3大産業とされた巨大企業の寮長(寮母)だったこともあり、多くの社員さんの世話もしていたはずです。
おばあちゃんの部屋には、おいしいおやつがない!
クッキーもビスケットも、何もない。食べたくない。
チョコレートやケーキは、なぜ無いの。もっと他のものが欲しい!
そんなわたしに、いつも与えてくれた「大学いも」や「粟おこし」、それに「蒸したさつまいも」。
何ひとつ切らしたことはなく、部屋には毎日必ずそうした食べ物がありました。
これは、戦時中でも畑で育てることができる栄養価の高い食べ物。おいしいね!おいもさんありがとう!
そう感謝して食べたなら絶対おいしいと感じるんだから。
おいもさんも生き物なんだから。命があるんだよ。
感謝する、とは、その命をいただいて自分の力として活かすことだよ。
だから「いただきます」って言うでしょ。
幼稚園に入る前の時期のわたしに、ひとつ一つ納得の行くように説明してくれたこと。
昨日のことのように目に浮かびます。
自分は「もっと別のものがいいんだ」「もっと別のものが欲しいんだ」。
その氣持ちの裏側には、
目の前にある満ち足りた環境に対する感謝を忘れてしまった自分がいるのではないでしょうか。
別のものを望むのが悪いのではなく、
すでに満ち足りていることへの感謝と、すでに恵まれていることに対する御礼と。
このとてつもなくありがたく、溢れんばかりに恵まれている現実に対する感謝を。
そこにフォーカスを合わせるのなら、他に何を望む必要がありましょう。
そこに感謝の意識を持つのなら、他にどれだけのものを得る必要がありましょうか。
カラスの安堵に満ちた呼び声、仲間との夕げのさえずりを交わす小鳥たち。
すべての仲間に心から感謝を伝えます。
今日もありがとう。
感謝しています。
足るを知り感謝を忘れず。
ともに新しい世界を創造して参りましょう。
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●実りの季節に感謝
Original=2022年10月6日 22:00
わたし自身の手では、米の一粒とて作り出すことができません。
その昔、祖母が、茶碗についたお米の一粒一粒まで綺麗に食べなさい。と教えてくれたことを思い出します。
それは、稲という生命に対しての感謝と、お米を作っていただく方々への感謝と。
ええ、その幼少時期の意識でも、お米が植物としての生き物であることは理解できましたし、農家さんが田植えをしてから長い長い工程を経て、ようやく食卓にまで届くこと。
そこまでの理解はできていたはずです。
ですが、
年月を経るとともに、じっくりとその事項について考える機会は減ってゆきます。
あらためて、生き物なんだぞ、作っていただく人がいるんだぞ。
そのように大上段に構えて意識しなくなってゆきます。
だからこそ、
こうした風景に出会ったならば、もう一度思い出してみても良いのかな、と感じます。そして、先般の投稿のように「感謝に、しすぎることなどない」はずだと再認識するのです。
面と向かって、こうした感覚を語り、こうした言葉を書くこと。
それは、ええカッコしいだとか、自意識過剰だとか、そんなレベルはとっくに卒業済みだからこそ口にできる言葉だと感じます。
その行為そのものが、心を通して目に見えない世界に繋がることを理解し始めますと、ことの重大さといいますか、その大切さを噛み締めるとともに、先人(それは大正生まれの祖母の世代でさえ)は、ここまで深い教えを伝えてくれていたのだ、と驚くとともに、あらためてその事実にも感謝をしなければ、と思うのです。
感謝に、しすぎることはないですし、ひたすら御礼を伝える氣持ちを大切に。
と、感じた神無月のひとコマです。
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●有名企業の食べ物を口にしない
Original=2022年8月1日 10:42
この場でも何度か触れてきましたが、大正生まれの祖母が50年以上も前に幼少のわたしに語った多くの言葉。
その中の一つから。
「食べ物は有名企業のものを食べない・電化製品は有名企業の品を買う」
多くの説明は不要でしょう。
まず、その後ろの言葉から。
時代は1967年から68年頃。日本の高度成長期と呼ばれた時代。電化製品は次々と新製品ラッシュが続き、新機能も続々と搭載された製品が世に送り出された頃でした。
昔から故障は当たり前。そんな製品を修理して大切に使ってきた大正から昭和の前半を生きてきた人にとっては、故障そのものが「無い」電化製品は驚愕のレベルだったに違いありません。
だからこそ、技術の粋を集めた有名メーカー品は羨望の的だったと想像できます。
「有名企業の製品」は故障しないという驚きの完成度と品質を誇る。
これを入手するのが間違いない。という教えでした。
(この記事投稿時点である2021年10月の時点:転載2022年8月時点--では、また異なっていると思われますが。)
続く前側の言葉について。
「食べ物は有名企業のものを食べない。」
この混乱の時代になってあらためてその助言の確かさに驚いています。
webという公の場にあまり生々しいことを書くことができませんが、食品添加物という名の毒。
いえ、毒になるのかどうかは受け手側の問題も大きいと思われるので断言はいたしません。しかし、人間本来の生き方に歩調を合わせた物質ではないことは確かでしょう。
もしかすると、その意味が伝わらない方々も多いかもしれない可能性を感じます。
「口にするものに体に悪いものが入っているわけがない!」
「国が国民に対して害になるようなものを許可するわけがない!」
と、真顔で抗議してきた事例もありますので。
これ以上は触れませんが、真意は十分に伝わるはずです。
この反論の展開。どこかで聞いたことがありませんか。いえ、現在も聞こえていますでしょう?
「体に入れるものに対し毒が入っているわけがない!」
「国が国民に対して害になるようなものを許可するわけがない!」
いま、そんな言葉がリアルに聞こえていませんでしょうか。
祖母は96歳まで寿命を全うしたようです。晩年は会うことができませんでした。
でも、わたしに対しこれほどまでに重要な言葉を残してくれていたのです。それも50年以上も前に。
いま、この場でご縁がつながる方々に、その真意と重要性を伝えたく記します。
少しでもシンクロを感じる部分がありましたら、ぜひ時間をとって調べていただきたく思います。わたしたちは何を口にしているのかを。
いえ、口に「させられている」が正しいでしょうか。
自分の命は自分で守る。
まして、授かり・預かりもののこの体です。ありがたく使わせていただくことで学ぶ機会を与えられているのです。
人生すべて「まなび」の連続です。
感謝してこの体を大切にしたいものです。
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●おつむの弱い子は放っておきなさい
Original=2022年6月24日 12:05
「おつむの弱い子は放っておきなさい」
今から五十数年前に、祖母がわたしに対して語った言葉です。
誤解のないように初めに但し書きを。
人を蔑むのが目的ではありませんし、分断を推奨する意図は皆無である点、まず初めにご理解ください。
大正生まれの祖母(96歳で他界)が、幼少時期のわたしに対して語った含蓄のある言葉。
それが、
「おつむの弱い子は放っておきなさい」でした。
祖母がこの言葉に込めたストレートな意図は、
「自分と異なる意見や環境・立場にある他人の言動に一喜一憂せず、自分の考え方、身のこなしをしっかりと確立しなさい。」との教えだったと思われます。
他人から自分とは異なる意見を強要され不快になっても、自分は「どうありたいのか」をしっかり持っていればその考えが揺らぐことはありませんよ。という意識を教えてくれたものです。
「他の人は、あなたよりも"おつむ"が弱いんだから」という、逆説的な言い方によって「あなたは自分に誇りを持ち俯瞰していればいいんですよ。」という、幼少期の人間にとってはかなり難しい伝え方だったと思います。
いわゆる、「あなたは偉いんだから」「あなたは優れているのだから」といった語り口によって、
他の人が放つネガティブなエネルギーに飲み込まれ、自分からその沼に落ち込んでゆくことなどありませんよ、と伝えてくれていたわけです。
アタマで考える必要のない、ストレートに心に響く伝え方でした。
(もちろん、優れているか優れていないか、あるいはそうした比較論が良いか良くないかという部分はありますが、不快な思いに覆われ自分軸を失っている瞬間に、一瞬にしてそのモヤをクリアにしてくれる魔法の言葉だったように思います。)
いま、この言葉に込められた深い意図を噛み締めながら、これほどまでに貴重な教えを五十数年前に、4歳・5歳児に指導してくれた存在があったことに驚きを隠せません。
そして、
いまこそ、この言葉の持つ深い意味を体現すべき機会を迎えています。
目の前の現実は、人類が過去に放った集合エネルギーの結果として物質化・具現化していること。
ここに理解が到達しているのなら、
その結晶化した過去の遺物を見て、踊り叫び続けるのではなく、いまこの瞬間からあとに希望する近未来を描くことに最大限の力を注ぐべきでしょう。
少なくとも、過去の結果に一喜一憂し、
「このままではアカン...」
「狂った世の中を変えるにはもっと多くの人に伝えなければならない」
と、
そのエネルギーに同化して叫び続けている限り、あなた自身もそのタイムラインから脱出できないことに氣づきたいものです。
おつむの弱い子は放っておけば良いのです。
すべての人が同じシナリオで生きているわけではありません。そしてその個々人の脚本を他の人間が書き換えることは不可能なのですから。
いえ、だからと言って精神論オンリーに偏ってもなりません。
肉体を保持し物質社会に存在している以上は、この物質と心との両方のバランス感覚を失わずにいたいものです。
これを「心のつかいこなし」というのだと思っています。
「おつむの弱い子は放っておきなさい。」
それは、単なる分断思考ではなく、自分軸を見失わないための魔法の言葉だったのです。
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●ペチャクチャ喋らずに食べなさい
Original=2022年1月18日 14:38
「ペチャクチャ喋らずに食べなさい。」
いま、このワードを書きますと誤解が生じるリスクがありますので、まず初めに。
全体主義と監視化奴隷化の流れは、ついに黙食(モクショク)などという馬鹿げた洗脳を始めていますが、それについて語るものではありません。
当然、そうした狂った流れには同意できませんしその動きに追随するものではなく、食事という行為とその場の意識についての内容です。
この狂気の沙汰に触れるだけで著しく意識レベルが落ちますので、ここで前置きは終えます。
「ペチャクチャ喋らずに食べなさい。」
それは、
いまから50年以上前に、祖母(96歳で他界)が幼少期のわたしに対して語った言葉です。
その意味は、
「しゃべりながら食べると、食べ物として命を捧げてくれた生き物たちに感謝する気持ちを忘れてしまう。」
「だから、余計な・必要のない会話を慎み、口にする食べ物にお礼を伝えながら味わいなさい。」
ということでした。
テレビを見ながら食事をしない。という教育もここに通じるものだと思います。
余計な思考が入ってくることで、食事をする・食べ物をいただいている、そのような意識が消え失せてしまうからです。
もちろん、
食事という機会は、コミュニケーションの場としても役目を果たしているはずで、会話そのものを全否定するものではありません。
祖母の言葉は、以前から色々と(「おばあちゃんの知恵袋」〜先人の知恵を今日に活かす )と括り[Link]、この場に記してきました。
また、OfficialBlogのアーカイブでも、ご覧いただく機会の多い記事となっています。
すでに50年以上もの年月が経過してもなお、その真意が色褪せずに強力な波動を伝えてくれることに驚いています。
この期に及んで、その言葉の奥深さを噛み締め、食べ物としてその命を捧げてくれる動物たち、そして果実や野菜という形でエネルギーを与えてくれる植物たちに、御礼とともに感謝の氣持ちを忘れてはならないと思います。
また、
四つ足の生き物は本来は口にすべきではなく、必要最小限にとどめるとともに、一口ごとに感謝を忘れないようにしたいものです。
先人の言葉も話ずれずに。
今年、味噌を手作りしてくれています。
このあとの工程が大変なようですが、わたしは料理に関しては完全に素人で、むしろマイナスレベルのスキルなのでここで語れるだけの下地がありません。前段階の写真を撮って終わってしまいました。
が、健康第一と、本来の人間の生きる道を模索しながら色々と展開してもらえることに感謝しています。
(2022年1月18日)
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●冷やご飯は食べないで
Original=2020年3月31日 11:10
「冷やご飯は食べないで」の言葉をトレースしているだけでは、
炊いた後に時間が経ち、冷たくなったご飯は食べない、という意味しか伝わらない。
祖母が語ったその言葉の中には、
すべての食べ物に対し、常に感謝の心を忘れず、最高の味とコンディションでいただきなさいね。
と。
また、
食べ物を口にすることは、すべて何らかの命をいただいているのですよ。
冷たくなったご飯では、稲という植物の命を最高の状態でいただくことができないでしょう。
だから、冷えたのであれば温めて、稲の命であるお米に感謝していただきましょうね。
と。
実際、前日の冷やご飯は、毎日のように私の家に来てくれて、蒸し器で温めていた。(昭和40年はじめ頃は、電子レンジはまだ一般家庭に広く普及していなかった頃だと思う。)
蒸し器の底に敷いたさらし布の表面にこびりついた米粒、ひとつ一つを丁寧に取って、お米ひとつづつ、すべて命があるのですよ。
と話していた姿は忘れない。
大正生まれの祖母(96歳で他界)が、50年以上前に、このような意味が含まれている。と語ってくれた。
今の時代にこの意味を活かすなら...。
食料自給率が極めて低いこの国の現状、廃棄に対する意識も少しづつ改善されてきたのではないかと思う。
ところが国の政策は、さらに自給率を低下させるような法案や、遺伝子組み替え作物しか入れないような仕組みに意図的に向きを変え、グローバル企業が儲かるように仕向けている。
当然、裏で糸を引く勢力・権力があることはわかるが、一個人としてはどうにもならない。
少なくとも、国力の強化とは、武器を増備することや憲法改正することではなく、「命と切っても切れない食料自給率を高めることにある」と気づくことではないだろうか。
そして、このような流れを許しているヘッドに対して、無関心である国民一人ひとりの責任でもあるのではないだろうか。
無関心...それこそが、最大の原因であることに気づきたい。
祖母の言葉の中に含まれる深い意味と、50年以上前に優しく語りながら教えてくれた姿に、今の時代に活かせるものを見出している。
(2020年3月記す)
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●挨拶を大切に:挨拶次第で相手が変わる
Original=2020年3月22日 21:07
「挨拶で相手が変わる」とは、
挨拶をするかしないか、あるいはその仕方によって「相手の態度が変わる」の意だと思う。
祖母が語ったその言葉の中には、
挨拶は大切なものだから疎かにしないように。
と。
また、
人付き合いをうまく進めるには、まず自分から丁寧に挨拶をすれば、多くの場合、良い結果を導くことができるよ。
と。
大正生まれの祖母(96歳で他界)が、50年以上前に語った言葉には、そうした意味も含まれている。と教えられた。
今の時代にこの意味を活かすなら...。
リアルの人付き合いが希薄になっているかもしれない現在の世の中。
もちろん、webやその他の手段を有効活用することで、より早くより正確、あるいは、場合によってはより親密なコミュニケーションを図ることができる点も見逃せない。
また、
今般の世界規模での感染症における「リアルに人に接しない」施策も大変重要な対策に違いない。
リアルかバーチャルか、といった手段の差はあれど、コミュニケーションの入り口では必ず挨拶は必要とされるはず。
形だけかもしれないし、実際に挨拶を省いたところで何ら問題はないはずだ。
しかし、挨拶を疎かにすることで「本来スムーズに進むはずの用件」が、トラブルに巻き込まれるかもしれない。
挨拶ができることは当たり前である、という教育が徹底されてきたからこそ、こういった考察が可能になるのであり、やはり、どの時代においても挨拶は基本のキではないだろうか。
その言葉の中に含まれる深い意味と、50年以上前に優しく語りながら教えてくれた祖母の言葉の中に、今の時代に活かせるものを見出している。
(2020年3月記す:写真はイメージです)
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●行いは必ず返ってくる
Original=2020年3月18日 21:27
「行いは必ず返ってくる」とは、
言葉だけをトレースすると「自分の行いは再び自分に返ってくる」の意だと思う。
祖母が語ったその言葉の中には、
人に対して良くないことをすると、自分にも良くないことが返ってくるよ。
と。
また、
人だけではなく、物に対しても扱いを粗末にすると、その物から良くない反応や結果が返ってくるよ。
と。
大正生まれの祖母(96歳で他界)が、50年以上前に語った言葉には、そうした意味も含まれている。と教えられた。
今の時代にこの意味を活かすなら...。
使い捨てが当たり前の時代。
そうした時代だからこそ物を大切にしなさい。という意味もある。
ただ、使い捨てが前提のものもあり、何でもリサイクル・リユースを推奨するものではない点は、現代の社会情勢も考慮すべきものだと思う。
特に、現在大変な状況に陥っている感染症に絡むマスクなど、そうした対象物に該当するのではなかろうか。
今考える「行いは必ず返ってくる」の言葉。
「今だけ、カネだけ、自分だけ...。」などの言葉が当たり前のように流布される時代。自分だけではなく、相手の立場に立って考えることも必要だよね。
と教えてくれる。
今般の混沌とした状況から脱し、新たな経済社会・構造になってゆくためには、もう一度、人とともにモノに対しても愛着を持ち大切にしてゆく心が必要とされているのではないだろうか。
その言葉の中に含まれる深い意味と、50年以上前に優しく語りながら教えてくれた祖母の言葉の中に、今の時代に活かせるものを見出している。
(2020年3月記す:写真はイメージです)
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●「急がば回れ」に込められた思い?
Original=2020年3月13日 14:32
「急がば回れ」とは、
言葉をトレースしてみると「急ぐ時ほど遠回りしなさい。」の意だと思う。
祖母が語ったその言葉の中には、
ゆっくり、しっかりと考えて、間違いがないかどうか?を、きっちりと確認しなさい。との意味が含まれているよ。と。
また、
ゆっくり行動することにより、心に余裕を持ちなさい。とも。
そうすれば、
より良い結果が生まれる。と。
大正生まれの祖母(96歳で他界)が、50年以上前に語った言葉。
今の時代にこの意味を活かすなら...。
世の中スピード時代、と言われたのも、もはや過去のこと。
死語になっているかもしれないそのスピード優先の感覚。
むしろ、現在はスピード感が鈍ってしまって、個人レベルから企業に至るまで、判断のスピード感が「遅い」ことによる弊害も発生しているように感じる。
ここで「急がば回れ」を考えてみたい。
スピード感の欠如による判断遅延、判断誤認、といった弊害に対し、単にスピード感を上げよ!といった対症療法が叫ばれるだけにとどまっていないだろうか?
手段と目的が入れ替わってしまい、「スピード感を上げる」ことだけに走っていないだろうか?
目的は、判断を迅速に行い、よりよい結果を手に入れることではなかっただろうか?
だからこそ今、「急がば回れ」。
その言葉の中に含まれる深い意味と、50年以上前に優しく語りながら教えてくれた祖母の言葉の中に、今の時代に活かせるものを見出している。