お金に感謝ではなく「その学びのための仕組み」に対してでしょう
何度も繰り返し綴っているような氣もしますが、飽きずにお付き合いいただく皆さま、重ねて御礼申し上げます。
穏やかです。
暖かい気候に暖かい心持ち。
幸せは探すものではなく、
まして、引き寄せるものでもなく。
「最後の砦(とりで)=お金」も同じ。
引き寄せるものなどではなく、
まして、その奴隷化の道具に感謝し続けるものでもなく。
はい、すべてのものに対して分け隔てなく感謝すること。
とても大切でしょう。そしてこれからの世では最も重要な意識に違いありません。
但しそれは、そこまで学び切って悟った後で語る言葉でしょう。
まずは、支配と被支配の立場・関係を認識することは避けて通れませんでした。
そのために、苦しみ・浄化し、卒業試験に取り組んできたこの最後の数年でした。
この期間には、
この直近の数千年間の歴史と、この地の、隠され騙され続けた歴史を学んだはず。
(学んでこなかった方々は、ここではご縁は繋がっていないはず。)
ところが、
現時点でも、まだまだ洗脳が深く、世界各国の中央銀行がどのように支配されていたかを知らぬ人が大半である現在の状況に唖然とします。
無理もありません。学校で教えてもらっていないのですから。
(じゃ、自分で学ぼうよ。ってことなのですけれど。
わたしは、過去、会計学に財務諸表論、と、まさにそのど真ん中を学業で専攻したのです。ご丁寧に、大学以外にさらに専門学校まで含めて。
言うなれば熱狂的な信者^^とでもいうべき感覚でした。
有難いことに、現在も帳面/帳簿に関する作業には不自由しませんが。
でも、それがこの世に対してどのように作用しているのか。どういった仕組みだったのか。このとんでもない奴隷化の仕組みを後に知ったからこそ、こうした場にその間違いを記し続けているのです。)
そして一見、精神性を高めたかのように見える方々。(失礼な意味はありません)
穏やかに、暖かく愛を語る。
美しいと思います。
でも、
すべてに愛を、すべてに感謝を。
と、やってしまい、奴隷化のツールたる「お金にも感謝」し続けてしまうのです。
ええ、その「仕組み」に対しては感謝する必要があるでしょう。
プラスもマイナスも、どちらも体験させていただけたのです。その貴重な体験に感謝するのはとても大切でしょう。
けれど、その道具にしか過ぎない・単なるツールであった媒体をいつまでも握りしめ、感謝、感謝、とやってしまうのはどうなのでしょう。
まして、幸せのために引き寄せようなどと。
これは、平和について考える思考回路と似ていると(私見に過ぎません)感じています。
平和も、そうでない対極にある紛争・流血の世も、その「仕組み自体」を体験し「どちら側も共に存在するこの地の仕組み」を勉強させていただけたことに対しては、十分に感謝すべきでしょう。
でも、
その道具たる武器や凶器、そのものに対して崇めて感謝しますか。
これは違うでしょう。
人を殺める道具に感謝、感謝ですか。
両極が存在するというその仕組みや体験に対してでしょう。感謝するのは。
ともに体験させていただき学ぶことができた、この地の貴重な仕組みと体験に対してでしょう。
感謝の行為、感謝の氣持ちはとても大切で崇高なもの。
でもその対象は、やはりこの「学びの地」においては、どちらも共に必要な仕組みだったのだと知った後、分別をもって認識することに意味があり、それこそが学びなのではないかな、と思うのです。
何でも無闇に、感謝・感謝。
すべてに愛を注いで。ではないはず。
なぜなら、この地は「そのどちらも認識し体験し、そしてどちらを選択し、これからどちらにフォーカスして行くのかを学ぶ」ところだから。
ここまでたどり着いてから、ようやく自分の望む道に、すべての愛を注ぎ・すべての事象に対して感謝するのではないでしょうか。
すべてに感謝。
わたしも良くそうしたフレーズを使います。
でも、漫然と単にすべてではないのですね。
これからの望ましい道を共に歩む仲間、同じ道に進む生命、それらすべてに対して。です。
これまでの歴史の中に存在した支配と被支配との関係という、学びのために用意されていた道具まで、ごちゃ混ぜにしてしまって、何でもかんでも感謝ではないと思っています。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。