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宮本陽・宮本章光 AKIRA MIYAMOTO@And EM Official Blog

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「らしさ」を追求する

photo by AKIRA MIYAMOTO

先般のティーブレイクミーティングでは、それぞれの方がご自身の作品を持参いただいており拝見することができた。
その中で強く感じたのは「自分らしさ」をしっかりと確立なさっていること。

もしかすると、ご自身ではあまりそうした部分を意識して撮影されていない可能性もあるのだが、見る側にはしっかりと伝わってくる。

例えば、構図。
例えば、光の向きや加減。
例えば、色彩・トーン。

それぞれ、撮影時の撮影者の意図がはっきりと判り、画像処理工程での各プロセスに意図が見える。
結果として「統一感」が生まれ「意図や意思」として見る者に伝わる。

ネガティブに言うならば「似たような絵」かもしれない。
しかし「統一感による明確なメッセージ」が見える点で、撮影者の「らしさ」を伝えることができたとも言える。

頻繁に開催することは難しいものの、継続開催を目指したいと思う。

肝心なことが置き去り

photo by AKIRA MIYAMOTO
肝心なことが置き去りにされている、といったシチュエーションがやたらと目につく。

型を作ること。規則を作ること。マニュアルに沿って動くこと...。
すべて大切であり、疎かにして良いなどとは決して言わない。

但しそれは、結果を得るため、そして成果を導くために、遠回りをせずリスクを減らすために必要とされるものであったはず。

今、いつの間にか目的や目標地点が消え失せてしまっている。
プロセスをひたすら遂行することや、ディベートばかりに心血を注ぎ、結果・成果を得ることを忘れていないだろうか、わたしたち日本人は。

MVNO(格安sim)は卒業

ここ5年ほど、MVNO(いわゆる格安sim)を渡り歩いた。
だが、これ以上のお付合いはやめることにした。イコール大手キャリアに戻った。ということ。

そもそも、MVNO会社との契約をするのは、スマホの月額料金を下げるのが目的。
実際、コストは下がった。だが、品質は自分の利用シーンでは劣悪であり、キャリアのサブブランドを除くと、現時点では「安かろう悪かろう」でしかなかった。
もう一度書くが「私の利用シーンと目的においては。」つまらない言葉の揚げ足を取り批判する人が多いので念のため。

また、大手キャリアのプランでは「音声通話をまったくしない」にもかかわらず通話定額部分の契約が不可避であったこともMVNOへ逃げる理由の一つだが、ここにきてdocomoでは通話を含まないプランとともに、永年1,500円を減額し続けるプランも発表となったので、これらをうまく活用すれば従来よりコストダウンが可能になる。

もちろん、それでもMVNOとの比較ではまだまだ割高なのは仕方ない。代わりに品質が担保されるわけで、その点に納得すればよい。
ウチの場合はキャリア回線1本は保険の意味で維持しているので、MVNOで遊んだ回線をサブ回線で転入し、データ量もシェアすることで従来ではありえない低コストで維持できるようになった。

docomo2回線とUQmobile1回線。これでモバイルにおける通信インフラは確定。
あとは、低速なMVNOに合わせるような馬鹿げた規制が発効しUQの品質が低下しないことを願いたい。

使いたいときに繋がらない、遅すぎる、切れる...というなら、そのリスクは月額費用で解決すべきだと私は判断した。残りの人生の中で、こんな部分に無駄な労力と時間を費やすのはやめた。大切なことを見失わないようにしたい。
とにかく安いだけしかメリットがない回線はもういい。

なんでもボケりゃいいって?

photo by AKIRA MIYAMOTO
何でもボケりゃいいってもんじゃない。

物理的にボケを語るレベルではないセンサーと焦点距離のレンズにもかかわらず、エフェクトでボケを作り出す。
それはそれで一つの遊びとしては楽しいし、そうした処理が手のひらの上で実現する技術革新は凄いものだと思う。

でも、ボケることがありき...的な方向性はどうなのだろう?
28mm前後のレンズ、ボケを語ることが難しいセンサーサイズ。
そして、被写体の立ち位置・距離。

ボケなんて無くても「これは面白い」と感じたシチュエーション、配置具合、色彩感。
そんなところに構図を決め撮影を楽しむ原点があったはずだ。

写真に内包される撮影者の心

photo by AKIRA MIYAMOTO
古いアーカイブHDDを開く必要があったので、2004年の撮影データより一枚。

13年経過してみると、当時「何を感じ、何を思って撮った」のかといった記憶が完全に消え失せている。
何も感じず、単に目の前にある被写体を記録しただけだったかもしれない。

どこにも押しを感じず伝える力が弱く、どことなく寂しい。
この後、半年経過してから病床に臥すことになる。

写真に内包される撮影者の心。
そういったものが存在するのかしないのか。といった論議は不要かもしれない。

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